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ライスシャワー 「孤高のラストステイヤー①」

『名馬列伝』第2弾はライスシャワーを書いてきます。

ライスシャワーは90年代初頭~中期にかけて長距離戦線で活躍し、
最後はレース中の故障により、この世を去った馬です。

『名馬列伝』第1弾のオグリキャップが、
僕にとっての競馬に興味を持たせる「きっかけ」を作った馬であったのに対し、
ライスシャワーは、「1頭の馬をファンとして追いかける楽しさ」を
覚えさせてくれた馬です。

ですので、ライスシャワーの壮絶死は、
当時の僕には耐えることができずに、一時期競馬から離れる原因にもなりました。

ライスシャワーのお墓にはいまだに多くのファンがお参りしたり、
お供え物が置いていかれるそうです。

決して優秀な成績を残し続けたわけでもないし、
順風満帆な競争生活ではなかったライスシャワーが、
いかにして、このように人の心を打つような名馬だったのか、
書いていこうと思います。

 

~誕生~

1989年3月、北海道登別にあるユートピア牧場で
1頭の小さな黒い仔馬が誕生しました。
母はライラックポイント。父がリアルシャダイ
ライラックポイントは4度目の出産でもあり、実に順調な出産となりました。

「黒い仔馬」

この事が、父リアルシャダイの血を色濃く受け継いだ結果であることを、
牧場のスタッフは誰もが感じていた。

リアルシャダイ
自身は「ドーヴィル大賞典(芝2700m)」やマ「ロニエ賞(芝2400m)」を
勝利するなど、クラシックこそわずかに届かなかったものの、
中・長距離戦線で確かな実績を残していました。
その父ロベルトは「英ダービー」を勝利するなど、
こちらも中・長距離戦線で活躍。

余談にはなるがロベルトは、ブリガディアジェラードという当時の
イギリス最強馬で国のヒーロー的存在だった馬が、
あと1勝すればリボーの持つ16連勝のヨーロッパ記録に並ぶという、
大偉業を打ち砕き、一躍悪役イメージがついた馬としても有名です。
この血統背景は、この「黒い仔馬」が後に迎える運命を
暗示していたのかもしれません。

母のライラックポイントはユートピア牧場に代々繋がるスタミナ血統。
しかし、その大きすぎる馬体が豊富なスタミナを生かしきることなく繁殖入り。
ライラックポイントの父はマルゼンスキー
現役時は日本の最強馬論争でも挙げられる程の1頭で
傑出したスピードの持ち主でしたが、
その体質の弱さが自身にも産駒にもネックでありました。

「ライラックポイントの4番目の子」

牧場でこう呼ばれることになった仔馬は、順調に育っていきました。
その中で、小柄ではあったものの日常の動きから身体能力の高さなどが
随所で垣間見られ、その血統の良さから購買の申し入れが何度かあったが、
ユートピア牧場の所有者で自らも馬主である栗林秀雄は、
首を縦に振ることはありませんでした。

翌年10月には千葉県にある大東牧場へと黒い仔馬は移されました。
大東牧場はユートピア牧場に付随する育成・トレーニングのための施設。
広さこそユートピア牧場に及ばないが、
厩舎に入厩して本格的な調教が始まる前に、
競争馬としての基礎作りがココで行われていきます。

この大東牧場でも、黒い若駒のその高い身体能力は評価され、
育成も常に他の若駒よりもリードしていた。

翌1991年3月に「ライスシャワー」と名付けられた黒い若駒は、
美浦トレーニングセンターの飯塚好次の元へ入厩となった。
飯塚は母のライラックポイントも預かるなどユートピア牧場と
深い関わりのある厩舎でした。
飯塚調教師は、ライスシャワーを見にユートピア牧場に足を運んだ時も、
いざ入厩のこの時になっても、良い馬だとは思うが
GⅠどうのこうのという印象は受けなかった。

そしてもう1人。飯塚厩舎の厩務員である川島文夫
この厩務員歴15年のベテランが、ライスシャワーの担当となり、
今後苦楽を共にすることになる。

川島も飯塚調教師と同じく、ライスシャワーに特別な印象は
感じなかったものの、その長い経歴の中で他に見ない頭の良さを、
ライスシャワーが持っていることに気付き始めていました。

とにかく、ここからライスシャワーの競争馬生活が始まりました。

 

~2歳~

入厩後もライスシャワーは順調に調教が積まれていきました。

調教コースを1頭で走るよりも、他馬と一緒に走る方が時計が早くなる。
この一見当たり前に見える光景は、競争馬として大事な闘争本能が
高い証拠
であり、ライスシャワーを見る飯塚調教師の期待は、
調教が積まれるにつれて徐々にではあるが高まっていった。

当初7月の札幌開催でのデビューが計画されていましたが、
軽い熱発により回避。1ヶ月後の新潟でのデビューとなった。

デビューの舞台は新潟芝1000m
鞍上は若手の水野貴広(当時19歳)。何度も調教でライスシャワー
跨っていて、その時からこの馬の非凡さは感じ取っていた。
調教の良さもあり、ライスシャワーは2番人気に推されました。

レースは先行策をとったライスシャワーが1番人気のダイイチリュウモン
ゴール前競り落とし、見事に初陣を飾りました。
着差は僅か(クビ差)であったものの、競り合いを制するという事が、
競走馬として如何に重要かは、過去の名馬達が物語っている。

例えば、シンザンシンボリルドルフ
この2頭の3冠馬は派手な勝ち方はしない。
ゴール板を先頭で駆け抜ければいいという事を
知っているかのようなレースが多い。
競り合ってもゴール前でわずかでも先頭に出ていれば良いのだ。

この勝負根性こそ名馬の証しというもので、
ライスシャワーもこの勝負根性を確かに持っていることを
再確認する新馬戦となった。

次戦を新潟3歳(現2歳)ステークス(芝1200)に決めた。
ただ、水野が1週前に騎乗停止となり急遽騎手を
変更しなければならなくなった。
そこで白羽の矢が立ったのが、菅原泰夫
1975年春クラシック4戦全制覇という前人未到の偉業を
達成したベテラン騎手だ。
ただ、ベテラン騎手といえど急遽決まった競争馬を
上手く捌くのは難しい上に、枠が最内だったあげく急に雨が降ってきた。
スタートが特別上手な馬でなかったために、
この条件ではとても勝負にならないと、川島厩務員は思った。
その危惧通り、スタートをそろりとでたライスシャワーは、
馬群に包まれ、見せ場なく後方のままのゴール(11着)となった。

この時点ではまだ、良い馬ではあるが特別な馬とは思っていなかった陣営は、
強い馬が大挙して出走してくる前に、早めに賞金を稼いでおきたかった。
そこで、9月21日の中山の芙蓉ステークス(OP・芝1600)に出走を決めた。
デビューから40日で3レース目。ローテーションは厳しかったが、
出走メンバーは、陣営の思惑通り楽なメンバーが集まった。
鞍上は新馬戦と同じく水野貴広。前走で乗れなかった分も、
ここで挽回したい気持ちで一杯だった。
レースは中団で待機していたライスシャワーが徐々に先頭へ進出。
ゴール前は1番人気アララットサンが追い込んできたが、
それを振り切って1着(頭差)でゴール。

オープンレースを勝利したことにより、
今後のレース選びが楽になった上に、ここにきてようやく陣営が、
ライスシャワーに特別な感情を抱き始めた。

そんな矢先、ライスシャワーに骨折が発覚。3か月の休養が必要となった。
ただ、軽度の骨折だったのと厩舎の馬房に余裕があったため、
放牧に出さず、自厩舎で治療・静養する事となった。
川島厩務員の不眠不休の毎日が始まることになる。

とはいえ、比較的早めの時期にデビューしたにもかかわらず、
2歳戦はわずか3戦しか走る事が出来なかった。

そんな治療・静養の中、陣営から誘われて1人の騎手が
ライスシャワーを見に厩舎を訪れた。

→ 第2話

<参考文献>
『伝説の名馬ライスシャワー物語』著:柴田哲考
『ライスシャワー 天に駆け抜けた最強のステイヤー』

 

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