ライスシャワー 「孤高のラストステイヤー②」
~的場均~
骨折により2歳戦線からの離脱は余儀なくされたが、
ひとまずの賞金が加算され、クラシックへの出走は可能となった。
そうなると、若手騎手の水野では心もとない。
陣営は新たな騎手探しに頭を悩ますこととなった。
クラシックに出走可能になったとはいえ、
相手関係が楽だった2歳のオープンレースを1勝しただけの馬である。
クラシックレースに出走する事は騎手のステータスでもある。
多くのトップジョッキーには、すでに乗り馬が決まっていたり、
OP1勝馬よりも本番で可能性のある馬を探していたりと、
なかなか良い返事を得る事は出来なかった。
2歳の成長時期の骨折も、大きな要因となっていた。
そんな中、療養中の厩舎に的場均騎手が訪れた。
当時34歳。1975年のデビュー以来、地道に実績を積み重ね、
1989年のドクタースパートで皐月賞を勝利するなど、
そのココと決めた「勝負強さ」には定評のある熟練騎手でした。
的場は古くから飯塚調教師との親交があり、
この日も、「一度見に来ないか?」という程度のものでした。
今まで何千頭とその背に跨った的場の目にライスシャワーの
見た目の印象は、これまでライスシャワーに関わった者たちと同じく、
「良い馬ではあるが、凄い馬には見えない」
でありました。
この時点で的場は、この馬でクラシック戦線に乗り込むか、
決めかねていた。
~ミホノブルボン~
ここで話を少しさかのぼる。
ライスシャワーが骨折で休養している間に、
同期に1頭の怪物が誕生しようとしていた。
ミホノブルボン
血統や体型から短距離馬と思われていたこの馬を、
名伯楽戸山為夫調教師は自身の「馬は鍛えて強くする」の信念のもと、
入厩当初から1日4本の坂路調教をミホノブルボンに課した。
それに応えたミホノブルボンは、2歳にして古馬以上の調教内容を
見せることになる。
デビュー戦はライスシャワーと同じく芝1000m戦(中京)。
出遅れながらも直線一気の圧勝。当時の2歳コースレコードを樹立。
続く500万下芝1600m(東京)では、ライスシャワーと同じ
ユートピア牧場出身のクリトライ以下を6馬身離しての圧勝。
勢いのまま、朝日杯3歳ステークス(現朝日杯FS)でヤマニンミラクルを
ハナ差抑えて2歳王者に君臨。
まだ、この時点では距離限界説が唱えられていたものの、
戸山調教師は、とにかく鍛えて鍛えて鍛えぬいていった。
~春のクラシック戦線~
骨折休養からようやくレースに使える状態に戻ったライスシャワーは
3歳の初戦を3月に行われる『スプリングステークス』に決めた。
皐月賞への大事なステップレースである同レース。
まだ万全と言える状態ではなかったものの、ライスシャワーが初めて
1戦級の相手と戦うレースで、どこまでやれるかが陣営の注目でした。
鞍上は的場ではなく、ちょうど手が空いていたベテラン柴田政人。
ここで、この年の「スプリングステークス」の出走馬を見てみよう。
まず1番人気は、一世を風靡していたノーザンテースト産駒で、
すでに重賞勝ちし前走でも重賞2着に入っている武豊鞍上の、
ノーザンコンダクト。
2番人気は2歳王者ミホノブルボン。
3番人気は前走の桜草特別(芝1200)を圧勝したサクラバクシンオー。
ノーザンコンダクト同様ノーザンテースト産駒で、
勝利こそ少ないが、ここまで安定した成績を残しているマチカネタンホイザ。
その他、皐月賞トライアルとして申し分のないメンバーが揃っていました。
「ミホノブルボン」・「サクラバクシンオー」・「ライスシャワー」
この後、中距離GⅠ・短距離GⅠ・長距離GⅠを勝利することになるどころか、
それぞれの距離での歴代最強論争の1頭に数えられる馬が
一堂に会する史上例のないレースでもありました。
話を戻し、
ライスシャワーは休み明けということもあり12番人気という低評価。
陣営の期待も、それほど高いものではありませんでした。
レースはミホノブルボンの独壇場。
サクラバクシンオーが逃げるミホノブルボンをマークし続けるが、
4角ですでに足が上がり脱落。変わってマーメイドタバンと
ダッシュフドーとライスシャワーが2~3着争いを演じるも、
遥か彼方前方でミホノブルボンが馬なりのまま7馬身差の圧勝。
距離限界説を見事に吹き飛ばし、この馬の時代の到来を感じさせる1戦になる。
ライスシャワーはダッシュフドーの競り合いにクビ差敗れ4着。
休み明け、重馬場という事を考えれば良く走った方か。
とはいえ、勝ち馬との力の差は歴然だった。
しかし、「それ以外の馬達となら」といった漠然とした期待感が、
陣営の中で漂い始めた。
このレースで手綱を取った柴田騎手も、
「勝ち馬との差はあるが、距離が延びれば良いところまでいくのでは。」
と語っている。残念ながら柴田騎手にはクラシックで、
すでに乗り馬(アサカリジェント)が決まっていたため、
このレースのみの騎乗となるが、「惜しい気持ちもある」と
述懐している。
ともあれ、クラシックへのある程度の目算が立ったことにより、
次第に調教内容も濃いものになっていく。
鞍上も、この後終生のコンビを組むことになる的場均騎手に決まった。
第52回 皐月賞(GⅠ・中山・芝2000)
飯塚調教師は渾身の仕上げで、
スプリングSからマイナス12kgまで体を絞り込んだ。
スプリングSで4着になったとはいえ、ライスシャワーの評価は、
11番人気という低評価。
レースは圧倒的1番人気のミホノブルボンが、
ここでも他馬を寄せ付けない走りで圧勝。
ライスシャワーは好位からの競馬をしたものの、
4角手前で失速。8着という着順に終わった。
第40回 NHK杯(GⅠ・東京・芝2000)
皐月賞で手も足も出なかった陣営は、
次走に3週間後のNHK杯を選んだ。
このレースにはミホノブルボンは出走してこない。
他の馬との差は、それほど開いていない。
そういった考えでの出走だった。
ライスシャワーは、この頃から脚元がしっかりしてきて、
調教でも速い時計を出すことができ始めていました。
この変わりように、川島厩務員はひそかに
「勝てるのではないか?」
という淡い期待を抱いていた。
しかし現実はそう甘くなく、勝利したのは皐月賞2着のナリタタイセイ。
ライスシャワーは9番人気の8着という結果に終わる。
川島厩務員の落胆は大きかった。
この相手・この仕上げでも好走できないようでは、
この先ものぞみは無いのではないのか。
対する鞍上の的場も、力不足を実感しこの結果も仕方なしと考えていた。
が、陣営の最後の望みである「距離」が伸びるダービーでは、
もう少し良い結果が得られるのではないだろうか。
この1点に賭けていた。
第59回 東京優駿【日本ダービー】(GⅠ・東京・芝2400)
この年のダービーはミホノブルボンのためのダービーだった。
世間の注目は、もはや無敗の2冠馬の誕生にしか興味はなかったのだ。
ライスシャワー陣営も、ミホノブルボンは別格として、
いかにして他の馬を競り落とし2~3に入るかを考えていた。
しかし、皐月賞・NHK杯と大敗を喫したライスシャワーに、
大きな望みをかけるのは酷に感じていた。
しかし、調教に跨った宗像調教助手と的場は、
ここにきてのライスシャワーの気合い乗りが、
今までと比べ物にならないぐらい良くなっていることを感じていた。
ただ、それでも勝ち負けするという考えではなく、
1つでも上の着順を目指すことに目標を置いた。
とはいえ日本ダービーは、競馬界最高峰のレースだ。
毎年1万頭近く生まれるサラブレッドの中で、
たった18頭しかたどり着けないレース。
遠く北海道の地でダービーなど大レースとは無縁だったユートピア牧場の
スタッフはもちろん、飯塚調教師・手綱を引っ張る川島厩務員、
経験豊かな的場均でさえ、気持ちの昂りは隠せない。
川島厩務員は、
「とにかく無事に。一生に一度のダービーを楽しめ。」
そうライスシャワーに語りかけるように府中の馬場へと送り出した。
ライスシャワーは単勝114倍の16番人気。
世間の評価は地の底まで落ちていたが、的場はなんとかミホノブルボンに
一泡吹かせることができないかと考えていた。
スタートは切られた。
いつものごとくミホノブルボンが先頭に立つ。
的場はライスシャワーを常にミホノブルボンをマークし続ける位置に
取り付けた。このままミホノブルボンにくらいついていき、
後半でどこまで粘れるかの勝負に出たのだ。
いつものように機械のように正確なラップを刻むミホノブルボンが
1000mを61秒で通過し、それに続くライスシャワーの鞍上的場は、
ミホノブルボンのちょっとした異変に気付いた。
どうも稍重になった馬場を気にしているような走りを見せていたのだ。
対して、ライスシャワーは余力も手応えも十分。
「もしかしたら・・・」
一瞬頭によぎった光も、直線に入ると一瞬で消し飛んだ。
緩い馬場も関係なかった。先頭を行くミホノブルボンは、
縮まってきていたライスシャワーとの差を、再び広げていく。
逆にライスシャワーの方の脚色が鈍くなり、後続の馬たちが襲い掛かる。
無敗の2冠馬の誕生が確定的になったゴール前の熱狂のはるか後方で、
激しい2~3着争いが展開されいた。
粘るライスシャワーを5番人気マヤノペトリュースが交わす。
ゴールまでの距離からいって、どうやらこの2頭の2~3着争いに
なりそうだったが、ミホノブルボンを追走して余力なかったライスシャワー。
下手すると、3着にも粘ることができないかもと感じた的場は、
「ココまで来て4着になるのは」
(当時ダービー4着馬は出世しないジンクスがあった)
と、ムチを1・2度叩いた。
マヤノペトリュースに交わされ、さらに鞍上に叱咤されたライスシャワーは
再び闘争心に火が灯り、マヤノペトリュースを差し返したのだ。
マヤノペトリュースとの叩き合いをわずに制し2着(ハナ差)に
なったライスシャワーは、世間や仲間であるはずの陣営にとっても、
全く予期しなかった走りを見せたのだ。
こうして、ミホノブルボンの2冠達成に沸く競馬界に、
ライスシャワーの名が、はっきりと書き残された一日が終わりました。
 
<参考文献>
『伝説の名馬ライスシャワー物語』著:柴田哲考
『ライスシャワー 天に駆け抜けた最強のステイヤー』
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