ウオッカ 「府中を酔わす極上の切れ味①」
● → 第2話
2007年、第74回東京優駿(日本ダービー)を制したのは
額の流星が輝く鹿毛の牝馬でした。
史上3頭目(戦後では初)の牝馬によるダービーを
制覇した馬の名は「ウオッカ」。
強烈な個性を放ったこの世代の牝馬の中で、
主役をはったこの馬は、その後GⅠを5勝(計7勝)あげる事になります。
ダービーを含め勝利したGⅠ6勝は全て東京競馬場で行われたレース。
府中(東京競馬場の呼称)に詰めかけた競馬関係者・ファン全てを、
その走りで酔わせた、この歴史的な名牝を振り返りましょう。
~誕生~
2004年4月、北海道日高にあるカントリー牧場で1頭の牝馬が産まれた。
カントリー牧場は「タニノ」の冠名で知られる馬主の谷水雄三が
経営している牧場だ。自らの馬を生産しレースで走らせる、
いわゆる「オーナーブリーダー」の1人だった。
1963年、父の谷水信夫が起こしたこのカントリー牧場は、
開設当初からマーチスやタニノハローモア、タニノムーティエ等、
多くの活躍馬を輩出。
しかし信夫は1971年不慮の交通事故により他界し、
タニミズ企画とカントリー牧場は長男の雄三に引き継がれることになった。
雄三は当初、牧場経営の規模を大きくすることにより、
業績を上げようとし、繁殖牝馬をこれまでの数倍にしたものの、
結果が出ないどころか低迷期に入ってしまった。
結局は父が行っていた少数精鋭が1番強い馬を作るのに
良い方法だと悟り繁殖牝馬を整理し、馬の育成に力を注いだ。
ただ、この時買い漁った牝馬の中に、
アメリカの1歳馬セールで購入したの1頭にタニノシーバードがいた。
そのタニノシーバードの9番目の仔がタニノクリスタル。
そしてそのタニノクリスタルが第69代ダービー馬タニノギムレットを産み、
雄三自身に初のダービーオーナーをプレゼントすることになったのだから、
決して牧場規模拡大が無駄に終わったわけでは無い。
そして、そのタニノギムレットと、
「名牝系一族シラオキ」の血を受け継ぐタニノシスターとの間に
生まれたのが後にウオッカと名付けられる牝馬である。
谷水は自分に初のダービーオーナーを
プレゼントしてくれたタニノギムレット産駒で、
なんとかダービー親子制覇の夢を叶えたかった。
強ければ牡馬でも牝馬でも関係ない。
とにかくダービーに出走させたかったのだ。
この「タニノシスターの2004」の仔馬を
管理することになった角居勝彦調教師から、
非凡な才能を持っていると聞かされた谷水は、
この仔馬の名前を「ウオッカ」と名付けた。
「”ギムレット”よりも”強い”酒」
「冠名のタニノで”割る”事をせず”ストレート”で」
こんな意味合いを持つ名前を谷水は選んだのだ。
そして、’07年のクラシックレースの事前登録の時期になり、
角居はクラシック登録をどうするかという電話を谷水にかけた。
谷水は「全部」と答えた。
この「全部」とは、牡馬と戦う事になる皐月賞・ダービー・菊花賞を
含めた全てのクラシックレースの事を意味する。
角居も確かな「自信」を持ち、それを了承した。
~素質と課題~
2006年春、角居厩舎に入厩したウオッカは、
当初からその素質の片りんを見せ始めていた。
雄大な馬体に、伸びやかなストライド、豊かなスピード。
ウオッカに跨った調教助手は口をそろえて、
「ハットやデルタにでもついていけますよ。」
と話した。
「ハット」とはこの年マイルチャンピオンシップと
香港マイルを制することになるハットトリック。
「デルタ」とは2004年の菊花賞馬で、
同じくこの年のオーストラリアGⅠメルボルンカップを
日本調教馬で初めて制覇することになるデルタブルースの事である。
その2頭の国内トップクラスの競走馬と、
入厩したての2歳牝馬が調教で併せることになるのだから、
まさに期待の表れであろう。
ウオッカは夏の函館開催のデビューに向けて調整されていたが、
熱発により回避。カントリー牧場に返されることになった。
(これが現役時代、最初で最後の故郷帰りとなる。)
秋になり再び角居厩舎に戻り、
10月29日京都2歳新馬戦芝1600mでデビューすることになった。
後に主戦騎手となる事が決まっていた四位洋文騎手は、
この日、東京競馬場で行われる天皇賞・秋にオースミグラスワンで
出走するために京都にはいなかった。
そのため、特別指定レースに出走するため東上していた、
地方佐賀競馬の名手・鮫島克也騎手にそのデビューの手綱を任せた。
1番人気は叔母にトゥザヴィクトリーがいる良血馬レースドール。
ウオッカは3.3倍の2番人気だった。
抜群のスタートを切ったウオッカは、
鞍上の制止を聞かず、頭を上げる形でどんどん前へ進んでいく。
2番手以下を2馬身ほど突き離したところでようやく折り合いがつき、
先頭のまま直線に入った。
直線に入り鞍上が軽く気合いをつけると、
中団から追ってきたレースドール以下を3馬身半突き離し圧勝。
ウオッカの能力の高さを再認識させるレース内容だった反面、
このままでは長い距離をこなすのは難しいという課題も、
同時に突き付けられた。
2戦目は11月12日、京都競馬場芝1800mの黄菊賞(500万下)に決まった。
鞍上は四位洋文。
デビュー前のウオッカの調教に跨り、その能力の高さに惚れ、
自ら騎乗を申し出ていた。
角居は四位に、馬ごみで競馬をする事を覚えさせるため、
後方からの競馬をすることを指示。
新馬戦のレースを見ていた四位も、考え方は同じだった。
谷水にも、負けるかもしれないが今後の事を考えて、
後方からの競馬を試す事を説明し了承を得た。
1番人気はオープンレースでも好走歴が多いマルカハンニバル。
ウオッカはまたしても2番人気だった。
8頭立ての7番枠に入ったウオッカはスタートをゆったりと出、
徐々に内に進路を取り、前に馬を置く形で折り合いをつけた。
レースは前半1000mを62秒というスローペースで進み、
ウオッカは道中最後方から、3コーナー手前で外に進路を取り、
大外を捲るように上がっていった。
直線で逃げるマイネルソリストを捉えるかのような勢いで伸びるも、
スローな流れで十分に余力を残していた逃げ馬を、
捕まえる事が出来ずに2着に敗れた。
1番重要だった「馬ごみで折り合う」という課題は克服できたが、
賞金が加算できなかったことにより、2歳女王決定戦である、
阪神ジュベナイルフィリーズの除外対象となってしまった。
最終的には9頭の中から8頭を選ぶ抽選に通り、
無事この2歳牝馬の晴れ舞台に駒を進める事になった。
その阪神JFには、ウオッカ最初の壁として、
この世代を代表する牝馬との対決が待っていた。
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